傾く刃

 

 


 

 「はぁっ、はぁっ…」

「ひ、ひぃぃ…」

「くっ、ふっ、はぁっ、はっ、はっ…」

 槍も大刀も投げ捨てた三人の足軽が昨日の雨でぬかるんだ地を駆ける。旗印から毛利の兵であることが分かる。つまり

織田方とは敵である。毛利は織田の本隊とこの地で戦い、一敗地にまみれていた。

 そしてその毛利の残兵を追う一人の美少年の姿があった。まだ小柄な体に似合わぬ大刀を両手に持ち、それを水平に

構えながら足軽たちよりも少しだけ早く駆け、徐々に足軽たちとの差を縮めていく。少年の名は森蘭丸。織田信長の小姓で

ある。小姓と言う身分ながらその剣技の腕から戦の時は前線に立つ。そして今日も十分すぎるほどの手柄を立てていた。いた

はずであった。

 蘭丸は大刀の重さの差など無いかのように足軽たちとの差をどんどん縮めていく。蘭丸より十は年が上であろう足軽たちは

もはや戦意を失い、今あるのは僅かな生への望みと殆んどの絶望であった。初めは十人以上いた仲間たちは既に殆んどが

切り伏せられ、残るのはこの三人だけである。

 そして三人の中の一人が少しずつ他の二人よりも逃げるのが遅くなってきた。そして追う速さは変わらない蘭丸との距離は

もう大刀二本分だけである。

「ひぃっ!!ひぃぃぃ!!!!」

 後ろを振り返ればすぐ後ろにあの鬼か何かが乗り移ったかのような形相をしたあの美少年が迫っている。

 そしてその鬼はついに太刀の間合いに足軽を一人捕らえた。

「だぁぁぁっ!!!!」

 最後に走るのとは違い、大きく跳ねると空中で振り上げた太刀を袈裟切りに振り下ろす。

「んがぁぁぁっ!!!!」

 甲冑ごと背中を切り伏せられた足軽にとってそれは致命傷であった。よれよれと本能だけで進む。あとはこのまま放っておけば

二、三歩で倒れこみ、あとはそのまま死を待つだけだ。だが蘭丸は残り二人の足軽を追う前に、その致命傷を負った足軽を

後ろから今度は地面と水平に太刀を走らせた。

「ひゅっ…」

 まるで笛に息が吹き込まれたかのような音を出してその足軽の首が宙を舞った。そして首を失った体はそのまま二歩だけ歩いて

そして地面の水溜りに突っ伏した。

 蘭丸は今度こそ足軽の死を確かめずに残り二人の足軽を追い出した。

 不幸な仲間が僅かばかりの時間を稼いでくれたおかげで足軽たちは蘭丸との距離を広げたが、だがまた二人を追い出した

蘭丸の健脚の前にまた足軽たちとの距離は縮んできた。

 普段の蘭丸であればもはや戦の展望が見えた今、こんな無意味な殺生をする事は無い。初めに十人以上の兵に囲まれた

時ですら相手の武器を払い落としたり、或いは二、三人に怪我を負わせて相手の戦意を失えばそれでよかったはずだ。だが今の

蘭丸は普段の蘭丸ではない。

 二人のうち一人がぬかるんだ大地に足を取られて転倒してしまった。そして立ち上がろうとするがあまりにも慌てているため

普通に立ち上がる事すら出来ない。

「あ、あわわ…」

 大地を這うように逃げるが勿論逃げ切れるはずもなく、すぐ後ろには蘭丸が迫ってきた。そして尻をついたまま後ろを向くと、

そこにはまさに大上段に太刀を構えた蘭丸がいた。さっきと同じく、一際高く飛び上がった蘭丸が太刀を今度は地面とは垂直に

振り下ろすと足軽の脳天から胸元まで頭に巻いていたはち金と甲冑ごとかち割った。

 残りの一人はその様子は見る事なく、ただひたすらに走って逃げていた。そして右斜め前方に見えている林に逃げ込もうと

必死に走る。蘭丸も当然どこへ逃げようがまた残りの一人を追い始めた。

 最後の一人が最後まで残っていられたのは転倒して切り倒された足軽より足が速いからではなく、先に斬られた足軽が

脚をもつらせるなどして脚力の差が出る前に斬られてしまったからである。つまり今や純粋な脚力の勝負になった今、残る足軽には

殆んど勝機は見られなかった。

 だがそれでも林に逃げ込めば何とかなるのではと言う考えで全力で林目掛けて走る。だが蘭丸の脚は鈍ることがなく、既に

体力の限界まで達していた足軽に林の入り口間際で追いつかれ、蘭丸は今度は刃を下に構え、斜め下から対角線に切り上げる

つもりだった。

「ひぃっ!!ひぃっ!!」

「だぁっ!!!!」

 蘭丸の太刀筋は寸分違う事なく足軽の背中を捕らえていた。だが。

「!?」

 林の中からスッと白馬に乗った長髪を束ねず流れるままにしておいた美丈夫が現れ、蘭丸の太刀と同じくらいの大刀をこちらは

片手で抜き放ち、軽々と蘭丸の刃を受け止めた。

 鉄がぶつかり合う甲高い音を響かせると、蘭丸はその人物に驚いた。

「光秀様!!」

 それは明智光秀であった。今日の戦には参戦していたが、確かこちらとは反対側の敵に当たっていたはずだ。何故ここに。そして

何故邪魔をしたのか。

「な、何故邪魔をするのです!!」

 その問いに答える前に光秀はその様子を分けがわからないといった風に見ていた足軽に声をかけた。

「行きなさい」

「ひっ、ひぃぃぃ…」

 足軽は林の中へ消えていった。

「光秀様、どういうことですか!!何故敵兵を切るのを邪魔をするのです!!」

 蘭丸は改めて馬上の光秀に叫んだ。普段の蘭丸はこんなに声を荒げたりすることは無い。ましてや光秀に。だが光秀は全て

分かった様子でゆっくりと馬から下りる。

「お蘭、どうしたのです。普段のあなたならもはや戦意の無い兵を切ることなど無いはず。それも背後から斬るなど普段のあなたなら

忌み嫌う事のはず」

「そっ、それは戦に高揚すればそのような事もあるでしょう」

 言葉どおり蘭丸の言葉は高揚していた。いや、荒げていたと言ってもいいかもしれない。例え光秀でなくともそれは

普段の蘭丸とかけ離れていた事に気付いたはずである。

「お蘭」

 光秀が右手で蘭丸の顎をクイッと持ち上げた。ここには二人しかいないからこそである。だが今の蘭丸は例え光秀に

そういう行為をされても光秀の目を見る事が出来ない。

「どうしたのです、私の目を見なさい」

 その声に蘭丸は光秀の目を見つめた。だがすぐに目線をそらしてしまう。

「どうしたのです、何かやましいことでもあるのでは無いですか?」

「そ、そのようなことありませぬ!!」

 蘭丸はまた声を荒げて否定するがその声、その態度が蘭丸の本心、つまり光秀の質問に対して肯定の意味を表していた。

「はっきりと仰いなさい。ここには私とあなたの二人しかいません」

「わ、分かってるくせに…」

「何をです?」

 光秀のもったいぶった言い方に蘭丸が一気に捲くし立てた。

「知っているでしょう!!今度信長様は本格的な毛利攻めで中国へ行かれるのに小姓である私はここから京へいったん帰り、

そしてその後あろう事に私に越後攻めに加われと申される。光秀様は当然毛利攻めで中国へ行かれるのに私は中国とは

遥か彼方越後の地へ行かされるのです。他の小姓たちは皆毛利攻めに付き従うのに私だけが越後行きとは信長様は

あからさまに私と光秀様を遠ざけようとしているのです!!これが激昂せずにいられますか!!」

 一気に捲くし立てると蘭丸はハァハァと肩で息をつき光秀を見つめる。

 だがその蘭丸に光秀は微笑んだ。

「そう、それでよいのです。お蘭の本心を言う事で楽になったでしょう。今は私の目を見ても後ろめたいものが無い」

 確かにそうであった。今は光秀の目を見つめている事が出来る。

「お蘭、私も出来ることならあなたと一緒にいたい」

「では何故信長様に異議を申し上げなかったのですか」

 光秀は蘭丸のその問いに答える前に別なことを口にした。

「お蘭、私は太平の世をこの国に作りたいのです。私は今まではそのために信長様と言う強すぎる個性を持ってこの国を一つの

ものとし、そして争いを無くそうとしてきました。ですが信長様の個性は私の想像以上に強すぎる。我々臣下の者たちが集まって

なんとか御する事が出来るようなものではないのです。そしてそれは逆にこの世にとって不必要な乱を生み出すものになるやも

しれないとすら思えてきました。…お蘭」

 光秀は乱丸を見つめなおした。そして今度は蘭丸も光秀の目をしっかりと見つめ返す。

「細川殿と筒井の確約は取り付けました。毛利、上杉は言うにあらず、もし信長様と言う絶対的な君主がなくなれば徳川も

天下を狙い出すと思っています。関東の北条、東北の伊達、最上らが手を組めば織田の残党など物の数ではない。その時は

改めて一人による太平の天下か或いは群雄が並び立ち、そこから争いをさせないための組織を作りたいと思っています」

 聞く者が聞けばこれはかなり重大な内容である。というかはっきり言ってこれは謀反の計画そのものであるといっていい。

「お蘭、私と共に来ませんか?」

 光秀が手を差し出した。

 蘭丸はしばらく考えていた。だがふと顔を上げて光秀の目を見ると、蘭丸の手は光秀に差し出されていた。

 そして光秀は蘭丸の手を取り、自分へ引き寄せた。そして返り血に汚れた蘭丸の唇を奪う。しばらく二人はそうしていた。

そして二人が一度離れると蘭丸が口を開いた。

「明日信長様は寺に宿を取られます。私が言ってそこの警備を減らしておきましょう。」

「分かりました。確かこの先にある寺は本能寺でしたね…」

 蘭丸は刀を鞘にしまって本陣へ帰陣するため、ゆっくりと、だがしっかりと歩みだした…。

 

 

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