夢の際3
車の中には沈黙の魔法がかかっていた。実羽は車を走らせた時にかかっていたMDを止め、ディスクを取り出していた。少女には英語の歌で何が
何だか分からなかったが、僅かな時間だが女性にはそれが偶然自分も好きなアーティストの歌であることが分かった。
だが今はその音楽も止められ、実羽以外の二人は重すぎる空気と沈黙に辛うじて耐えていた。ウィンドウも閉められ、外からの音も進入に成功し
ていない。何より余りのスピードに微かな音もドップラー効果としてしか聞こえてこなかった。
だが漸く実羽の声が重い空気と沈黙を快刀乱麻した。
「経験はあるんですか?」
質問だけ見れば物凄く抽象的な質問ではあるのだが、この時は二人ともその質問の意味はある程度予想がついたし、また実羽の真意もその通り
であった。質問には主語が省かれていたため女性も少女も先に答えていいものかどうか迷ったが、女性はまさか少女に経験があるとも思えず、質
問の口調も大人に向けたものだったので、女性が先に口を開いた。
「無いです・・・。・・・経験は全然無いんです・・・。」
女性が透き通るような声の典型と言えるような声で答えた。僅かに髪を茶色に染めてはいるが、所謂「今時」の最先端を行っているような訳では
ない外見。腰まで届きそうなくらいの髪を一つに束ね、無造作に垂らしている。時たま見せる笑窪が実羽には印象的だった。それとも今は風呂上り
で化粧も何もしていないからそう思えるのだろうか。
「お姉ちゃんは経験なんてあるの?」
こちらは明らかに少女に向けた質問だとわかった。
「無いです・・・。」
それだけを答えるのがやっとといった感じである。
「でもあの合図はわかってたんだよね。何で?」
そうでなければいくら少女から視線をもらおうと「お持ち帰り」はしなかったであろう。
「インターネットで調べて・・・。」
「それでそのことが載ってたんだ。それより前から興味はあったの?」
「はい、興味は結構前からありました・・・。」
「へー、そうなんだ。きっかけとかってあるの?」
その質問には少女は答えるのにやや時間を要した。
「・・・特別これがあったからって言うのはないと思うんですけど・・・。」
「じゃあ気付いたらもう、そうだった?」
「はい、友達が男の子のことで盛り上がったりする時も私はクラスメイトの女の子のほうが好きで、そういった話に混ざれなかったり・・・。」
実羽にはそういった記憶があるため一つトピックを思い出した。
「じゃあ修学旅行の夜なんか好きな男の子の告白とかで盛り上がったりしなかった?」
「はい、修学旅行じゃなくて五年の時の野外学習の時でしたけど、皆でそういった話題になりました。でも私だけ答えられなくて、必死になって誤魔化
しました・・・。」
「そっかー、やっぱりそういう光景って何時でも変わらないものなのね。」
笑いを言葉に含めて実羽が答えた。
「で、今は好きな子がいるのよね。」
「はい、います・・・。」
「どんな子?」
「あっと、あの・・・、さっき一緒にお風呂に入っていた子なんですけど・・・。」
「ああ、はいはい。皆可愛い子だったよね。あ、勿論お姉ちゃんもよ。」
「あ、はい、有難う御座います・・・。・・・で、その内の背の大きい子が好きなんです・・・。」
「んー、分かった分かった。確かにねー。あれは女の子にはもてるわ。背が高くてかっこよくてナイスボディー。女子校ならずとも今からもててもおか
しくは無いよね。」
実羽は中学は共学、高校は女子校だったため両方の経験からそう思った。恐らく今のまま入学してもすぐにモテモテになるだろう。
「告白なんかしないの?」
「そんな!!・・・そんなこと・・・無理です・・・。」
「えー何でー?」
「だってあたし女の子だし・・・。」
「そんなの関係ないって。今の時代そういう壁はどんどん低くなっているんだよ。」
だが実羽には少女の気持ちもわかる気がした。勿論他人のことであるのでその気持ちもわかる、などとは簡単には言えない。精々「〜のような
気がする、ように思う」とぐらいしか言えないだろう。実羽は人の気持ちが読めるわけではない。軽々しく他人の気持ちになったふりなどは出来ない。
ただ矢張り若し実羽がその立場だったりしたらそうなのではないかとは思った。実羽が堂々と同性愛者であることをカミングアウトしたのは高校の時
であった。勿論わざわざそのことを触れ回ったわけではないが、そういう会話になったときには隠さず話すようになった。ただ実羽にとってやや以外
だったのは、友達から若しかしたらそうなんじゃないかと思っていた、と言われた時は結構驚いた。それまでは完全に隠していたつもりではあったが
隠し切れていなかったらしい。
だが逆にそうじゃないかと思われていたことによって、友達からは変な目で見られたりすることも無く、普段通りに接してくれた。また理解ある友達
に囲まれて実羽も何時もと変わらない生活を送れた。そして何より、実羽の告白によって、クラスにもう二人サッフィズムの女性がいたということが
嬉しかった。
しかもその内の一人は実羽に恋心を抱いていた。実羽もその子のことは嫌いではなかったので、すぐに深い関係となることが出来た・・・。彼女とは
付き合ったりはしなかったがそれでも深い関係は結構長く続いた。高校を卒業してもよく会っていた。最近こそなかなか会わないが、たまにメールと
電話のやり取りぐらいはしている。ただ最後に彼女を味わったのはもう二年近く前になるだろうか。
「でも・・・。」
だが少女の顔はまだ晴れない。
「まあ、無理にとは言わないけどね。でもやって後悔した事よりやらないで後悔する方が後悔は大きいよ。」
「・・・。」
意味は十分少女に分かったであろう。だがそれに答える術はまだわからなかった。
「相談とかなら乗ってあげるからさ。今日はどのくらいなら時間あるの?」
浴室から脱衣所に出たときが丁度七時頃だったから今は七時二十分位であろうか。
「九時頃までにさっきの銭湯まで戻れれば大丈夫です。」
「お姉さんは?」
女性は二人の会話をずっと耳をそばだてて聞いていた自分に突然質問が回ってきたのでやや慌てて答えた。
「あ、あの、私は一人暮らしなので、時間は何時でも大丈夫です・・・。」
「私の家なんかでよければ泊まれたりする?」
「あ、はい、あの・・・。」
「いや、無理にとは言わないですけどね。」
実羽がやや笑いながら女性に声を掛ける。
「い、いえ、そういう訳じゃないんです。私は全然かまわないんです。若しよろしければ・・・。」
「勿論いいですよ。一寸汚れてたりするけど。」
「あ、私の家は本当に凄いので全然大丈夫だと思います・・・。」
「あはは、そうなんだ。」
前の信号が黄色から赤になりかけたのでアクセルを更に踏み込んで辛うじて交差点を直進しながら何事も無かったかのように笑って実羽は答え
た。
「よろしければ名前とか聞いてもいいですか?私は実羽っていいます。木の実の実に、「はね」で実羽です。」
「あ、私は藍です。愛する「あい」じゃなくて、藍色の「あい」です・・・。」
女性が年長者と言うことで先に答えた。
「杏です。「あんず」の杏です・・・。」
「藍さんに杏ちゃんね。了解しました。それじゃあちゃっちゃと急いで帰っちゃいましょうね。」
そう言った実羽は取出し口に入ったままだったMDを取り出してギアの後ろにあるケースに何枚か入っているMDの中からMDを探し、取り出した一
枚をプレイヤーに挿入し、後は自動演奏に任せた。プレイヤーがMDの曲を読み取っている間に実羽はボリュームを少し絞った。すぐして演奏が始ま
る。二人にはボリュームを絞った理由がわかった。いきなり物凄い音で演奏が始まったのである。クラシック音楽であることは容易に分かったのだ
が、誰のなんと言う曲なのかは今度は藍にも分からなかった。これでは確かに先程の音量のままで演奏が始まっていたら驚きのために声をあげて
驚いていたかもしれない。
そこから少しずつ騒音にならない限界点までボリュームを上げ、そして実羽はギアを更に一段あげた。
二人の体は慣性の法則に忠実に後ろにつんのめる。だがその後、車を五台ほど追い越しただけでまた幹線道路からやや狭い道に入り、そこから
一寸走っただけで実羽のマンションにたどり着いた。
マンションは橙色が強い茶色のレンガ調の外壁の四階建て。マンションの前の駐車場に車をとめる。今度は藍と杏も自分でドアを開け、そして閉め
た。リモコンキーでドアにロックをすると実羽は何も言わず歩き出す。オートロックを開け実羽は二人を中へ促した。一応エレベーターはあるのだが、
実羽の部屋は三階で、別に降りてくるエレベーターを待つ必要も無いように思えたので、そのままノンストップで階段で上がる。
元々部屋についていた鍵と後から自分で取り付けたダブルロックを開けて中に入る。
「散らかってて悪いんだけど。」
そうは言うもののベッドの上に脱ぎっぱなしのパジャマがあるのと読みかけの小説と雑誌がフローリングの床においてあるのと、台所にまだ洗って
いない食器があるくらいしか藍には散らかっていると言う要素が見当たらなかった。
「どうぞ。」
実羽は恐らく来客用と思われるお揃いのクッションをテーブルの何時も自分が座っているクッションの正面に二つ置いた。
「コーヒーとオレンジジュースとコーラとビールと麦茶とミネラルウォーターと栄養ドリンクと牛乳、どれがいいですか?」
その後台所へ向かい冷蔵庫を覗きながら一息で捲くし立てるように二人に聞いた。
「あ、じゃあコーヒーを・・・。」
藍が先ず答えた。
「あ、じゃ私は牛乳を・・・。」
杏も後ろを振り向いて答える。実羽は杏の答えに反応して、
「牛乳って、やっぱり成長期だから背を伸ばしたいとか胸を大きくしたいとかってあるの?」
胸は冗談のつもりではあったのだが、
「はい、やっぱりその・・・好きな人と比べるとどうしても・・・。」
「あー、あの子はね、正直言って特別よ、多分。少なくとも私たちのときではあんな子は学校に一人いるかどうかだったもん。今は昔とは違うんだろう
けど、あんまり変わってはいないと思うけどなぁ。」
「私も一寸見ましたけど、凄かったですね。」
少し打ち解けてきたのだろうか、藍から会話に入ってきた。
「そういえば藍さんは幾つなの?」
「二十三です。」
「私のほうが二つ上か。杏ちゃんは?」
「十一です。今年二になります。」
「じゃあ今六年生か。」
「はい。」
「あ、じゃあ今年その修学旅行とか課外学習とかでお泊りはないの、学校で?」
ふと何かを思い出したかのように実羽が聞いた。
「あ、今年は修学旅行があります。五年生と一緒です。」
「なるほど、毎年修学旅行とその課外学習が交互にあるってことなのかな?」
「はい、そうです。」
今までの話を総合して実羽が得心を得る。
「じゃあ、その時に彼女に告白したら?」
「え、でも・・・。」
またいきなり思いもかけないことを言われ、杏は矢張りすぐには決心がつかない。
「それまでにあたしが自信つけてあげるから。あとテクニックも。あ、それは藍さんにもか。」
実羽がそう笑うと藍は少し頬に色を浮かばせた。そして更に藍と杏を驚かせることを実羽がのたまわった。
「ね、じゃ二人でキスしてみせてよ。」
『え!?』
二人の声が綺麗に短くハーモニーを奏でた。