暗蜜 其の七
松は用件を短くしたためた書を懐にしまった。
直接この書を本人に渡すことはまず無理である。そこで矢文にして伊達の陣へ放つ事にした。三人は弓矢は持っていないが、このあたりでは
さっきまで戦が繰り広げられていたのだ。弓矢の一つや二つその辺に落ちているだろう。三人は伊達の陣を目指す道すがら弓矢を探して
歩いた。
三人の予想通り弓矢はすぐに見つかった。弦も切れていない。それを着物の内側に隠して伊達の陣へ近づく。
三人は伊達の陣を見下ろせる小高い丘に来た。伊達の本陣の馬印が見える。あの印の元に政宗がいるのだろうか。だがまさか本陣に
矢を打ち込むことも出来ない。ならばどこに打ち込むべきか。そもそも忍びが戦場でよくいる場所など逆にそう簡単に分かる方がおかしい。
政宗の近くに控えているのは間違いないのだろうが、ここからはそれが見えるわけではない。下手な場所に打ち込んで騒ぎを大きくすることは
得策ではない。その忍びが豊臣方と繋がっているのではないかと思わせることが出来るかもしれないが、それは今は望む所ではない。今は
僅かに光る一縷の望みである。
「・・・楓様のご推測ですと伊達にならばこのことは知られてもよいのではないでしょうか。本陣に打ち込めば配下の者が政宗より先に文を
見ることは無いかと思いまする。」
確かに楓の推測が外れていなければ政宗とは戦う理由はなくなる。それに配下のものが先に政宗より本陣に打ち込まれた矢文を見る事が
無いだろうというのもそうだろう。
松が楓に進言した。普段はこんなにしゃべることがない松だが、今はいつも一番よく喋る桜がいない以上、松がその代わりを務めなければ
いけない。
楓としてもそれは最後の手段ではあるが選択肢から外してはいなかった。だが今は少しでも確率の高い方法を取りたかった。楓はまた伊達の
陣をよく見渡した。
その時千代があることに気がついた。
「楓様、伊達の陣、本陣の陣幕の真裏がやけに人がいないように見えまする。」
楓と松は目をよく凝らしてその辺りを見る。それは言われてみれば確かにそのように見える。言われなければ気づきそうも無いぐらいの
僅かな隙間だが、本陣の周りにしてはそこは人が少ない。他は兵が立って見張りをしているのに、そこには兵が近づきすらしない。楓は
本陣に打ち込むよりはこちらの方が確率は高いと判断した。
弓矢を使わせれば豊臣の忍びの中で一番扱いに優れた桜にやらせたのだろうが、桜がいない今は、楓が文を結びつけた矢を引いて
目を眇める。もっとも楓にしてもその腕には不足などこれほどもなかったのだが。
楓は息を止めて矢を伊達の陣へ放った。矢は狙い通り僅かな人の隙間に刺さる。その証拠に伊達の陣は全然騒ぎ出すことがない。
一般の兵がその矢を見つけたわけではないのだろう。三人はその場で待つことにした。
・・・楓が一番初めに気がついた。松と千代はその接近に気づかなかったのである。大木を背にして待っていたのだが、その前方から迫って
来たのに気づいたのは楓だけであった。とはいっても松も千代も警戒を怠っていたという事はない。戦場で、しかも敵方の陣地に矢文を打ち
込んでその反応を待っているのである。これ以上警戒しなければならないことも少ないであろう。だがそれなのに一流と呼んで差し支えない
松と千代にすらその接近を気づかせなかったのは相手も超一流であったという事である。松と千代が気づいたのは楓がその接近に気づいて
その反応を見たからである。
ピリピリとした空気が伝わってくる。黒脛巾組はその得意な技によっていくつかの組に分けられている。諜報が得意なもの、戦場での撹乱が
得意なもの、暗殺が得意なもの。また更に武芸が得意なもの、火縄銃が得意なもの、毒薬が得意なもの、変装が得意なもの、篭絡が得意なもの
など細かく分けられる。今楓たちの前に現れる者たちもそれぞれの分野において秀でたものたちなのだろう。殺気はないのに空気が張り詰めて
いる。
「・・・・・・琴美一人で参られいと木葉(このは)様、おぬしが知る名では沙耶が仰っている。ついて参られい。」
その声の主をうかがい知る事は出来なかったが女の声で楓たちに伝えられた。琴美とは松が江戸城の大奥にいた時に使っていた名前である。
松は立ち上がって声のする方へついていった。楓はそれを止めようとはしない。松を信じているし、これしか今は方法がない。一年のうちで
一番鮮やかな緑を誇らしげに実らせている木々の間を縫って松は黒脛巾組のくノ一についていく。黒脛巾組のくノ一の姿は見えなくても松の
足取りはしっかりしている。松とて一流の忍びなのだ。おそらくさっきは松と千代が黒脛巾組の接近に気づかなかったというより、楓が恐るべき
までに早く黒脛巾組の接近に気づいたということなのであろう。仮に楓がいなくても、例えばさっき黒脛巾組が松と千代に非友好的な目的で
近づいてきても致命的なまでの接近は許さなかったはずだ。
黒脛巾組の忍びと松は伊達の陣の近くまで来ていた。ここからさっき楓が矢を打ち込んだところまでは微妙に兵たちの視界からは外れている。
そうなるように命令されて物見や見回りをしているのだ。これはもう微妙というよりは絶妙というべきかも知れない。己の兵たちにも知られることなく、
また同時に当然政宗の陣幕のすぐ裏へ通じているのだから忍びたちの警戒が届く範囲がそこにはあった。
既に姿を見せていた黒脛巾組の忍びは何もいわず何も知らせず素早く走り出した。だが松もそれについてすぐに走り出す。忍びの後ろを
ぴたりとついて走っている。四分の三方を幕に囲まれたところに来ると忍びは立ち止まり、松の方を振り向いて言った。
「木葉様が参られる。しばし待たれよ。」
そういうとその忍びは陣幕から出て行った。
松は立ったまま目をつぶった。
微動だにすることなく心の中を無にする。
木葉は松のすぐ後ろに立っていた。だがそれは松がその接近に気づかず背後を取ることを許したのではなく、近づいてくるものが既に何の
殺気も持っていないことを悟っていたからである。木葉も心に何の波風も立っていなかった。
その心にまた何の波風も立たせず木葉が口を開いた。
「久しいな。壮健そうで何より。」
「互いに。聞けばかなりな身分になったようだな。」
「世が世なら琴美・・・、琴美と呼ぶが、琴美も豊臣忍軍でも一、二を争う者になっていたであろう。」
だが実は木葉の言葉は少しは当たっていた。ただそれは琴美、つまり松の他に松以上の腕を持つものが楓一人だけになってしまったからである。
勿論松の腕も十分なのだが、それでも松と並ぶだけの腕を持ったくの一は何人かいた。だが豊臣の衰退と共に、それは大阪の陣が決定打と
なって一気に人材が枯渇してしまったのである。楓、松あたりの腕はどこの忍びにも劣らないものであるが、桜、千代を除くとそれ以外の人材では
豊臣は心もとない。もっともそれは忍びだけに限らず武将にしてもそうだし、国力にしてもそうであるのだが。
「我らには一人のどうやっても超えられない忍びがいる。私などその方には遠く及ばぬ。」
「聞いたことがある。豊臣の生きる伝説。踊る影。舞う刃。そして薫る風。腕は我らが黒脛巾組の頭領にも劣らぬという。今や服部半蔵を越えられる
ただ二人だけの人物だという。」
服部半蔵とは勿論当代随一の忍びである。この半蔵を越える者などいるはずはないと思われていたが、黒脛巾組の今の頭領とそして楓の
存在がその噂を昔のものにしつつあった。
「お主のことはなんと呼べばよい?」
松が聞いた。自分は琴美と呼ばれている。そのことに不満があるわけではない。ただ自分は相手の江戸城での名前の他に忍びの名前も
知っている。相手は自分のことを琴美としか知らないからそう呼んでいるが、木葉、つまり沙耶はどう呼ばれるのがよいのか分からない。
「沙耶がよいな。今しばらくだけだが昔を懐かしみたい。勿論無駄な時間がないのは承知だ。だが昔の呼び名で呼び合って昔を思い出すくらいの
ことは出来るであろう・・・。」
静かな足音が近づいてきた。別段その足音を隠そうとしているのではない。もともとそういう歩き方なのである。足音の主は松と木葉、
つまりここ江戸城では琴美と沙耶がいる部屋の前で止まった。
「琴美殿、静御前様がお呼びでございます・・・。」
そういうと琴美も静々と立ち上がった。そして沙耶に一声かける。
「では、わたくしは先に参りますゆえ・・・。」
忍びの時の松からは考えられないくらいその動きは優雅で優美だった。この江戸城の大奥にいてもその立ち居振る舞いが場違いと言うことは
これほども感じさせない。それ以上に他の女性よりも高貴で優雅な動きをする。誰もその動きから松が豊臣の忍びであることなど気づきもしない。
それは沙耶もであったが、だが沙耶は琴美が忍びであることを知っていたし、また琴美も沙耶が忍びであることは知っていた。二人が大奥に
仕えるようになってから、また二人が同じ部屋をあてがわれてからお互いがその端々に見られる動作などからそう悟ったのである。二人は
逆にこのままお互いを詮索し続けるよりはお互いが協力し合って任務を遂行した方が得策だと悟って自分たちの正体を明かしたのである。
琴美は着物の裾を翻らせると、障子をあけ、静御前がいる部屋へと向かった。琴美を呼びにきた女官がその障子を閉めて琴美についていく。
琴美は静御前の部屋の前に着くと、障子の前で畏まる。
「琴美でございまする。」
「お入りなされ。」
琴美は障子を開けてから立ち上がり、部屋に入るとまた膝を突いて両手で障子を閉める。この一連の動作も流れるようで見事である。静御前は
このような琴美の何気ない動作も好きであった。
琴美は部屋に入ると改めて畏まる。
「よい、おもてを上げい。こちらへ。」
静御前は今年、齢三十を迎える。だがその容貌は衰えというものを忘れたかのように美しかった。肌もきめが細かく、月光を映したかのように
白い。その静御前は隣の間で既に布団の脇に座っている。
「はい・・・。」
琴美は立ち上がると静々と静御前がいる部屋へと歩く。そして静御前の脇にまた座る。
「お主はいつ見ても美しいの・・・。神はお主にこの世の美全てを与えたもうた。」
「そのようなことは・・・。」
それは琴美の本心であった。目の前にいる静御前もまた、神から寵愛を受けた者である。
「まことの事じゃ。沙耶もお主に負けず劣らず美しいがお主とてこの大奥でも一、二を争う美女。何度も聞くがわたしのものにならぬか?」
「もったいないお言葉でござりますが・・・。」
「何か不満があるなら申せ。条件をつけてもかまわぬ。お主の好きな条件で迎えよう。正直お主が他の者に抱かれることを想像するだけで
辛い。嫉妬というやつじゃ。わたし一人のものになってくれればその苦しさからも解き放たれる。どうじゃ、わたしのものにならぬか?」
「恐れ多きお言葉、恐縮至極に存知まする。されどまことに申し訳なき事ながらこの事だけは今はご容赦下さりますよう・・・。」
琴美は手を突き頭を垂れ丁重に断った。だが言葉に少しだけ含みは残している。琴美の任務はあくまでも江戸城と江戸の街の調査である。
それが全てを優先する。逆に言えばその事に少しでも支障が出そうなことはすべからく排除せねばならない。琴美は今は静御前一人のものに
なるべきときではないと思っていた。まだ江戸の全容を把握してはいない。静御前のものになればそれで今では知りえない深い事を探ることも
出来るから、いずれその時がくればその申し出を受けようと思っている。だが今はまだ時期尚早である。
「さようか・・・。今はと申したがそちの心が決まればわたしのものになってくれるか?」
「はい、今しばらく心の準備をさせていただきとう存じます・・・。」
「分かりました。よき答えを待っております・・・。」
「有難うござりまする・・・。」
そう言って琴美は更に深く頭を垂れた。琴美はいずれ静御前の下を去らねばならない。それが任務である。だが琴美は静御前とだけは別れる
ことに少しばかり後ろ髪を引かれる思いがある。それはまるで解け残る雪のように、きっと分かれてしまってからも静御前の顔が声が想いが
忘れられないかもしれないと今から不安に思っている。まだまだ自分が未熟であると自覚をせざるを得ない。情が邪魔なのはこのような時なのだ。
もしかしたらいずれ静御前とはお互いに事を構える立場同士に分かれるかもしれない。だがその時に静御前を敵として思えるかどうか。その
余計な想いのせいで全体の作戦や指揮になにか支障がもたらされるのではないか。そう考えると琴美は努めて静御前への想いを切り取ろうと
する。同時にその努力が無駄に終わることを願って。
「琴美、そちの体を私に見せてくださりませ・・・。」
「はい・・・。」
静御前は琴美を裸にして月光を背にして立たせ、それを眺めるのが好きだった。白い肌が月の清い光で更に白く光る。光がなだらかな曲線に
よって遮られる。僅かに仄見える琴美の表の肌には薄桃色の二つの突起しか見えない。
何も纏うものが無くなる事によって更にその者自身のもつたおやかさ、しなやかさ、清楚さが表れる。琴美はそういったものが一糸纏わぬ姿に
なっても、いや、なって更に深く、だが控えめに出てく。静御前はそのような人物を他には両手で足りるくらいしか知らない。ここまで完成された
人は大奥でもそうはいないであろう。
誇るわけでもなく、恥ずかしがるでもなく、たたずむと言う表現が琴美にはまさに当てはまっていた。
「……。……、…はぅ……」
静御前がため息を漏らす。琴美の美しさに見とれたため息が自然と出てきたものだ。琴美の姿はいつ何度どれだけ見ても飽きない。
「……。…。…。……ふぅ…。…琴美、私の隣へ…」
そういうと静御前も着物を脱ぎ始めた。着物は予め寝具だけになっている。一枚脱ぐと、そこには琴美同様の神に寵愛された体があった。
琴美はその姿をとても美しいと思う。体型だけではない。優しい曲線。無駄のない肉付き。適度に張った肌。それ以上に静御前自身が発する
神々しさとまで言っていいような雰囲気。琴美はそのような肉体を他には知らない。静御前は自分のことを美しいと言うが琴美にしてみれば
自分など月夜の蛍程度だと思っている。どんなに自分で光ろうと思っても月の光一つにかき消されてしまうのだ。勿論その美しさとは外見だけの
ものではなく、静御前全てが持つ美しさである。神は静御前から老いというものを奪った変わりに美しさを与えたもうた。
琴美は静御前が完全な裸になると同時にその脇にはべった。その絶妙な間合いを知っていることも静御前が好きなところであった。
「・・・琴美、放しとうない。わたしはあなたを放したくないのです……」
静御前はそっと手を琴美の頭に廻し、自分の方へ引き寄せた。