暗蜜 其の四
抜け道の出口までは個々人の心中の葛藤を除けば、何ら支障なく辿り付く事が出来た。かなりの距離を走りはしたが、日頃の鍛練の賜物でこれ
からの行動に差し支えは無さそうである。
三人は忍び服をその場で脱ぎ、裏返しにまた羽織る。忍び服は、裏返すと、民草のそれと見比べて何ら変わりの無いものになる。変装の一番の
基本といってもよい。
土を固めただけの階段と出口を手早く回りの景色と同化させまだ喧騒の聞こえるその場に背を向けた。
目指す先は長崎。
秀吉は当時九州を起点に広がりだしていたキリスト教を禁教にしており、また、外国との貿易も禁止にしていた。だが秀吉は秘密裏に外国から当時と
しては進んでいた文明を取り入れていた。というのも当人は様々な外国の文明の進んだ技術というものは認めていた。戦国を生き抜いてきた武将と
して、その有用性というものは十分理解していたからである。ただ同時にそれは、その文明が自分に矛先を向けたときの恐ろしさも小さくない。一個
人で行うようなことではない貿易というものを秀吉だけしか行うことが出来ないようにすることなど不可能である。せっかく配下にした諸大名から反発
が挙がることは必至である。全国を統治しそうな勢いの秀吉に面と向かって反対の声を挙げる者が実際出てくるかは分からないが、どう考えても
他の諸大名は心中穏やかであろうはずが無い。それ故、外国との貿易は一切禁止にしたし、その進んだ文明を餌に布教を図ろうとするキリスト教も
禁止にはした。したが矢張り外国の技術、文明は捨て去ることが出来ず、九州のキリシタン大名に秘密裏に信仰を認め、その代わり外国との貿易
を行わせた。
忍びとはいわばエリートである。一国の浮沈が一人の人間の双肩にかかるような任務をこなすのだ。そのための教育は全ての面において徹底を
極める。優れた大名には優れた忍者団がいることも少なくは無かった。武田家には透波衆。徳川の伊賀衆と北条の風魔党は有名である。伊達家
には黒脛組がいたし、根来・雑賀衆は堺の豪商と結びつき勢力を誇った。そして豊臣の忍者集団は、外国との秘密裏の貿易が始まって以来九州は
長崎に拠点とも言うべき里を置き、進んだ外国の知識、技術を子供のうちから叩き込んでいた。ある程度大きくなり、忍びとしての任務をこなせると
判断された者は里を出、実際の任務につく。その中でもこの桜を含めた四人は楓は豊臣家くノ一集団の長として当然としても、残りの三人はこの
豊臣家の危機においてその大役を命ぜられるなど、極めて忍びとしてくノ一として優秀であった。千代にはまた、経験というものは欠けていたが、
千代以上の適任者もおらず、昨年の大坂の陣から秀頼の下で働いていた。
どうやら戦場の最激戦区からは無事に離れることが出来たようだった。ただまだ戦は完全に終わってはおらず、喧騒と怒号は風上から聞こえて
くる。戦場から離れたとはいっても戦もこの段階になると落ち武者狩りが始まり、小規模だがそれまで以上に広範囲な戦闘が行われることになる。
まだまだ気を抜くことは出来ない。
背丈の高い草に紛れつつ早く安全な場所へと三人は移動する。だが、相手からこちらが見えないと同時に、こちらからも相手を先に見つけるのは
そう容易い事ではない。いくら見た目が忍びには見えないとしても、逆に戦いで高揚した兵士に見つかった場合、少々厄介なことになるやもしれ
ない。並大抵の相手でなければ、手練の三人がおくれをとるようなことはまずあるまいが、その騒ぎで、更に多くの兵士に見つかってしまうことが
厄介である。仮に見つかった場合、極力短い時間で、かつ静かに事を収める必要があった。
三人は松を先頭に楓を殿におき、千代を挟んだ形で、全速力ではないにしても駆け足で長崎を目指している。大坂から堺に出、そこから海路で
九州という道も過去に往路も復路も使ったことがあるが、毛利水軍が完全な味方とはいえなくなった今、時間はかかっても中国地方を陸路で行く
方が安全である。完全に忍びとしての見分けが出来なくなった今は、陸路であれば、普通に道を往来してもまず怪しまれることは無い。ただ海路は
その利用者が少なく、その分人目につく。
ましてや女性三人で海路というのは諸大名の水軍や、奉行が見守る中では少々目立ちすぎるかもしれない。若い女性三人が海路で移動すると
いうこと自体が、忍びと疑われる疑われない以前に目立ってしまうのだ。
到着は早いに越したことは無いのだが、だが早く着いたところで悲願が早くかなうという類のものでもない。安全であることが一番なのだ。
だが背丈の長い草が生い茂る地帯を抜けると、急に松がその場に立ち止まった。千代と楓は慌ててその後ろで立ち止まる。
「どうした?」
その声と同時に松と同じ姿勢を取った楓がその行動の意味が分からない為小声で松に尋ねる。
「真田の隊がおりまする。」
数歩下がり、また背丈の長い草の中に少しだけ紛れた松が答える。千代も既に松の後ろで片膝をついている。楓は姿勢を低くしたまま松の脇まで
進み、
「幸村様はご健在であろうか・・・?」
と尋ねた。
「・・・少なくとも秀頼様の元には討ち死にの知らせは届いて来ておりませんでしたが・・・。」
答えたのは千代だったが、そのことは皆が知っていることであり、抜け道に入ってから今までの戦況の事は知りようが無かったので、楓の質問の
解答を充足させることが出来たわけではなかった。
楓が幸村のことを気にかけたのには理由があった。
勿論真田軍五千の大将としての存在は余りにも大きい。ただそれは豊臣の者としての意味であり、楓個人にとっては幸村とは、また特別な意味を
持った存在だったのである。
「・・・!!おりました!!」
千代の声色は高いが、声量は抑えられた声に、他の二人が真田軍の方を更に凝視する。この三人の中では一番千代が目が良かったのだ。
このとき真田軍は見たところ、四、五百まで減っていた。三人は真田軍の左後方から見ていたのだが、部隊の丁度中央よりやや前方に白と黒の
「ぶち」の幸村の愛馬が足軽と、他の焦げ茶と黒の馬たちの間から覗いては消え、覗いては消えをしていた。
千代にその場所を教えられる前に、楓と松も幸村自身とは判別つきにくいものの幸村の愛馬ははっきりと見て取れた。
「幸村様がおられるという事は真田丸は矢張り落ちたのでしょうか?」
「おそらくはな」
千代の問いに楓は肯定の抑揚で答える。真田丸とは他の将や浪人が大阪城に篭城したり、自身達で柵を作ったりする中、大阪城の前方に真田
軍が作った半円の形をした砦である。戦の序盤では家康に組する大名たちはその砦を落とすのに一苦労させられた。だが質、量共に豊富な徳川
方は、多大な犠牲は出したものの、なんとか真田丸は落とすことには成功していた。
「如何致しますか?」
長である楓の判断を松が仰いだ。
勿論真田軍は味方である。だがそうと認識しているのは楓達三人だけで、真田の将兵は楓たちを豊臣の忍びなどとは知らない。自家の忍びですら
将兵が知っていることは殆ど無い。ましてや他家の忍びだなどといわれても分かるはずが無かった。
唯一幸村は楓のことを知っているし、その楓が残りの二人のことを忍びだといえば幸村は信じてくれるかもしれないし、その幸村が将兵にその事を
いってくれればこの場は何も無く通ることが出来るかもしれないが、だからといってこの場がいきなり好転するわけでもない。半々の確率で最善の
結果が得られるかもしれないという事よりは、八割方の安全のほうが今は大切なのだ。
楓自身がどうするか悩んでいたが、その思考は遠くから響いてくるほどの馬蹄と真田軍の怒号と喧騒によって打ち切られた。
「伊達だ!!」
「伊達の騎馬鉄砲隊だ!!」
真田の将兵が一斉に色めき立つ。その馬蹄の正体は紛れも無く、この夏の陣で目覚しい活躍を見せた伊達家の騎馬鉄砲隊であった。
伊達政宗は長篠の戦で武田の騎馬隊が散々に織田・徳川連合軍に打ち負かされたことは当然知っていたし、その後急速に戦も騎馬を主力とする
戦い方から鉄砲を主力に据えた戦いへと変わっていった。
だが政宗は騎馬のその機動性と、また平地において、長篠の戦のように万全の態勢で鉄砲を使えるわけではないことを知っており、騎馬と鉄砲、
そのお互いの長所をあわせた騎馬鉄砲隊というものを配下の者に言いつけ編成、訓練させた。
物凄く単純なことではあるが、単純だが困難そうではあっても何事にも挑戦してみる政宗の性格と、政宗の領地下にある南部が良馬を沢山産出
すること、そして鉄砲の有用性を他の誰よりも認識していた政宗だからこそ出来たことであった。
政宗が編成した騎馬鉄砲隊はおよそ八百余り。多くの成果を上げてなお、その殆どが無傷で残っていた。そして幸村を討つ為、政宗がその部隊を
こちらにまわしたのであった。
「伊達の・・・!!」
楓は当然その存在は知っていた。そしてその実力の程も知っていたのである。鉄砲隊だからといって一発撃ってそれで終わりではない。撃ち
終わった鉄砲を馬腹に固定させると、次は抜刀し、普通の、いや選りすぐりの武者たちは並以上の騎馬隊として機能するのだ。その間も次から次へ
と他の鉄砲が遠くから近くから狙ってくる。その威力が知れ渡ってからは、豊臣方からは一つの災厄として聞こえていたのである。
楓は飛び出したかった。飛び出して真田の軍に今すぐこの場から逃げてくれるように叫びたかった。いや正確には幸村にだけ伝えられればそれで
よかった。
だが仮にその声が届いた所で退く幸村でないことも楓は強く知っていた。それだけに今の自分のやるせなさに体が葛藤というものに小さく、そして
激しく揺すぶられていた。
そしてその幸村は、楓が知っているような幸村そのままの行動を取った。自身の長い穂先の脇から小さく二又に分かれた槍をその場で頭上で
大きく一回転させ、
「ヤアッ!!」
と自身の愛馬に合図を送り、愛馬も己の主人の望む通り、敵の中央目指して全速力で駆けて行く。
真田の旗印は六文銭である。当時、三途の川の渡し賃が六文だといわれていた。即ち仮に死したとしても三途の川の渡し賃に困ることが無いよう
旗印にしているのである。そしてそれは真田の将兵の心意気でもあり、皆幸村に劣ることの無い意気を持っていた。
真田の将兵は我らが主君に遅れてはなるまじと敵の馬蹄を目指して突っ込んでいく。
だが伊達軍の、
「撃てー!!」
「はなてー!!」
「てー!!」
という小隊長の声があがると同時に無数の鉛の塊が、三途の川へと真田兵をどんどん導いていく。
だが幸村はその死の糸を潜り抜け敵の先頭と切り結べる所まで来ていた。敵の中に紛れてしまえば同士討ちの恐れがあるため鉄砲は使えない。
幸村は自身の槍で突き、切り、時には柄で相手を叩き落しながら少しずつ前へ進んでいこうとする。
だが伊達の騎馬鉄砲隊もよく訓練を受けた者達だけあって、敵を徐々に包囲するように包んでいき、鉄砲を最大限利用してくる。
次第に回りの戦況はどんどん不利になり、幸村自身も一歩も前に進む事は適わなくなってしまった。
だがそれでも何とか退くまいと自軍の先頭で羅刹の如く槍を振るっていた時だった。
「うぐっ!!」
右の脛の部分が大きな衝撃とともに熱さを頭に伝える。僅かに頭を下げて見てみると、どうやら鉄砲によって具足に穴が開けられているようだっ
た。そして具足を貫通した弾は逆に具足によって勢いを弱められたことによって脚を突き抜けることは無く、体内に留まっているようだった。この位の
傷ならが今までに何度も受けてきており、さして影響があるわけではないが、さりとて無視できるほどの物でもない。鉄砲の弾は体を貫通するより
体内に残っている方が危険なのである。弾が鉛で出来ているだけに、体内にありつづけると毒を撒き散らすのだ。
(・・・最もそれまで生きていればの話だがな・・・。)
幸村には鉄砲の弾の毒による死期よりも討ち取られて迎える死期の方が近いように感じた。
(・・・だがもう潮時か・・・。)
そう判断した幸村は、
「退けー!!」
との号令を全軍に出す。その声を待っていたかのように真田軍は雪崩れるように楓たちが隠れている草むらの遥か前方の草むらの方向へ逃げ
出す。
伊達の軍勢はまだ幸村を討ち取っておらず、相手のすぐ背後に付いて追撃を始める。だが、あまりの真田の軍の逃げっぷりのよさが「整っている」
ことに疑念を抱いた小隊長の数人は自分の部隊の者を自重させるように、
「待て!!」
「追うな!!逃げ方が怪しいぞ!!」
と声を挙げるが、今日の戦いでは連戦連勝、すっかり気を良くしている騎馬鉄砲隊の殆どは追撃の勢いを緩めない。
そして真田の将兵が粗方草むらへ逃げ込み、伊達の者もその草むらに入り込んできたときのことだった。
「今だ!!槍を上に上げよ!!」
幸村の号令に伊達の部隊と戦う前から隠れていた二百余りの槍兵はその槍を上に向け、勢いをかって追って来た伊達の騎馬や将兵を下から
突き上げる。いや、下からわざわざ突き上げなくとも草むらの背丈が長いため、前にだけでなく上にも飛び跳ねねばならない騎馬隊の下にいれば、
敵のほうから隠れていた槍の穂先に落ちてくる。
「くっ罠だ!!敵が隠れているぞ!!」
その言葉に漸く追撃の勢いを緩め、敵の仕掛けた罠に陥ってしまったことを悟る。そこに来て伊達の騎馬鉄砲隊を預かっていた将が、
「退けー!!此処は一旦退くのじゃー!!」
という号令により、また数十騎が敵の槍によって草むらから脱出できなかったものの、何とか、それ以上の被害の拡大は抑えられた。
草むらの外に出た騎馬鉄砲隊であったが、元々騎乗で戦うため火縄銃の予備の弾や火薬は少なく、一先ず部隊の再編成をすることになる。
敵にはもう鉄砲などの戦力は無い。いるのは先の戦いで残っている将兵と隠れていた槍兵だけだ。それならばそれで戦い方はある。今は虚を
突かれたのと、油断していただけだ。後方からは政宗の本隊七千が向かっている。それを待っていたほうが確実である。せっかく政宗から預かった
大事な騎馬鉄砲隊をこれ以上失うわけにはいかない。騎馬鉄砲隊の兵は鍛えるのが大変なのである。
(幸村様・・・。)
楓は自分が知りうるありとあらゆる神仏に祈っていた。
(偉大なデウスとやら、もし幸村様を救ってくれるのなら今この場でお主の門徒になってやっても構わぬ。頼む、幸村様を死なせないでくれ・・・。)
長崎で知ったキリスト教の神とやらにも必死に祈る。胸の前で何度か見て知った十字も切ってみせた。
だが。
だが楓の願いは届かなかったのか、それとも届かないと決め付けるにはまだ早いのか、伊達の騎馬鉄砲隊の後方、遥か向こうに多くの砂塵が
舞い上がるのが見える。
(あれは・・・。)
楓に旗印はよく見えなかったが、その状況からすれば、明らかに敵の援軍だと分かる。その感じからして五千を下る事はあるまいと楓は思った。
「あれは・・・伊達の本隊です!!」
矢張り一番最初にそう確認できたのは千代であった。
「独眼竜が・・・出てきたか・・・。」
楓の瞳は旗印を確認できたのではないが、ずっとその方向を見ながらつぶやいた。